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説明 |
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常陸国分寺跡
741年(天平13年)、聖武天皇が五穀豊穣・国土安穏を願い、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てるよう命じました。当時は疫病も流行しており、仏の力を借りることで国を安定させようと考えたのです。
常陸国分寺の建立は、752年(天平勝宝4年)年とあり、同年5月に百済王敬福が常陸守に任ぜられました。

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常陸国分尼寺跡
国分尼寺は国分寺と同様に、741年(天平13年)、聖武天皇の詔によって国ごとに建立されました。 国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」。発掘調査によって「法華」と書かれた土器が発見され、注目を集めました。
常陸国分寺跡から北西方向に約500mの位置にあり、1590年(天正18年)に佐竹氏が大掾(だいじょう)氏を府中城に攻めた時に焼失。 現在は礎石を残すのみです。
建物の配置(伽藍)は、一直線上に南大門、中門、金堂、講堂が並び、回廊は中門から講堂へ取り付けられ、その北側に建物跡があります。また、それらの礎石や基壇が非常によく保存されています。 現在、史跡公園として整備が進められ、市民の憩いの場所となっています。

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舟塚山古墳
舟塚山古墳は、全長186メートルの前方後円墳で、茨城県下最大、東日本でも第2位を誇ります。霞ヶ浦を見下ろす台地上に位置し、出土した円筒埴輪から、5世紀の中ごろに造られたものと考えられています。墳丘は3段に土を盛り、その周りには周溝が巡っています。さらに墳丘の形は日本一大きい大仙古墳(伝仁徳天皇陵)に似ており、大和政権との関わりをうかがわせるものです。

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府中愛宕山古墳
舟塚山古墳の北側、約300メートルに位置する前方後円墳です。
霞ケ浦に舟を乗り出す形なので出舟といわれ、舟塚山古墳は入舟と呼ばれます。1897年(明治30)年に東京大学の坪井正五郎教授が発掘調査し、無文素焼の壷七個を発見したといわれます。1979年(昭和54年)の周溝確認発掘調査により、全長96.6メートル・後円部径57メートル・前方部幅57メートル・後円部高8.5メートル・前方部高7.5メートルの規模を持つことが分かりました。その墳形は応神天皇陵(大阪府)に類似しています。 かつて、墳丘から象形埴輪が出土したといわれていますが、詳細については不明です。
この古墳は、舟塚山古墳群の中でも規模が大きく、築造年代は、舟塚山古墳の築造時期に近く、およそ6世紀前半とみられます。

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常陸国総社宮
常陸國の国府が置かれた時代、石岡は政治・文化の中心地として繁栄していました。
国府の長官は国司と呼ばれ、その重要な任務の一つに、国内の神社の管理と祭事の運営とがありました。新しく就任すると、国内の各神社を訪れて神々を参拝する「神拝」という行事がありましたが、この「神拝」を簡略にするため、国内の神社の神々を一同に集め祀ったのが「總社」でした。社伝によれば、常陸國總社宮の創建は天平年間と言われ、天神地祇の六柱が祀られています。
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富田北向観音堂
お堂は、かつて常陸總社宮の地内にあった神宮寺の観音堂として建てられたといわれています。元禄年間(1688〜1704)に神宮寺が富田町地内に移されたことにより、観音堂もこの地に移築されたと伝えられます。11面観音菩薩像が安置されています。
鰐口(工芸品)
この北向観音堂には「鰐口」が残されています。鰐口とは、社寺の堂の軒下にかけ、前に下がった綱を引いて、祈願のために打ち鳴らす、我が国独特の鳴器です。
北向観音堂の鰐口には、現在は確認できませんが、天仁年間(1108〜1110)の銘があったとも伝えられています。
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金刀比羅神社
もとは香取神社、香取大権現堂などといわれ、現在、廃祀となっている香取神社が発祥の地です。1906年(明治39年)、香取神社、金刀比羅神社へ合併が認可されました。1929年(昭和4年)、石岡の大火で炎上、1936年(同11年)に復興され、1952年(昭和27年)に宗教法人を設立しました。
しかし、2000年(平成12年)2月に不慮の火災で社殿を焼失、2005年7月から2年間かけて復興が進み、2007年9月の石岡のおまつりにあわせて、今の新しい社殿が完成しました。
古来、海浜漁業者の守り神として有名で、本殿は間口7.2メートル 奥行き9メートル。境内には神門、手水舎、鳥居があり、面積618.3平方メートルあります。

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盛賢寺 阿弥陀堂
成賢寺は関川地区にあります。1689年(元禄2年)に水戸光圀が領内巡検の際、現在の那珂市から移築させたものです。1784年(天明4年)に焼失、翌年に再建され、現在に至っています。
1983年(昭和58年)には阿弥陀堂を修復し、茅葺の屋根が銅板に葺き替えられました。

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爪書き阿弥陀堂
高浜の市街地、中ほどにある阿弥陀堂です。親鸞聖人が爪で描いたと言われる、阿弥陀如来像が背後の石に残されているとされます。鹿島神宮参詣のため、高浜を訪れた親鸞聖人が、当時、腫れ物のひどかった住人の症状を回復させ、その住人の願いを受けて、この石に像を爪で描いたということです。この言い伝えから、この像を尊んでお祈りすれば、腫れ物が治るという伝説も残っています。描かれているとされる如来像は普段は見ることができません。

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高浜神社
奈良、平安時代、国司の大事な仕事のひとつとして、国内の主要な神社を参拝することがありました。参拝する順序により「常陸一の宮」「常陸二の宮」(静神社・那珂市)、「常陸三の宮」(吉田神社・水戸市)と称される神社ができました。
常陸国の場合、「一の宮」は鹿島神宮であり、国司は高浜の地から船で参詣しました。しかし、天候不順などの理由で出航できない場合、高浜の地にススキやヨシを用いて仮屋(青屋という)を作り、そこから東南の方向にある鹿島神社を遥拝したのです。これが高浜神社の起源です。

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大乗妙典日本廻国供養碑
大乗妙典日本廻国供養碑は線刻で日本地図を描いた珍しいもので、1694年(元禄17年)に須賀田庄衛門によって建立されました。日本全国66ヵ所の社寺を巡り、法華経を納める巡礼僧を、六十六部(略して六部)と言いますが、江戸時代になると、一般の人々もこの巡礼ができました。
この供養碑はこの巡礼を達成したことを記念して建てたものです。

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佐志能神社(村上)
創建時期は不詳ですが、三代実録に「仁和元年(885)9月7日戊子、授かるに常陸国従五位下、村上神社従五位上」とあります。
社殿はしばしば火災に見舞われ、1883年(明治16年)4月に現在の社号となりました。1952年(昭和27年)、宗教法人設立。
龍門、君門の2穴あり。甚だ深く、底知れず、これより清水が湧出し、村上52戸の飲用水となり、世に村上に井戸なしといえりとあります。
祭神は 日本武尊 闇竜神。
境内規模 1587・23坪(約5・2ヘクタール)

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佐志能神社(染谷)
837年(承和4年)3月、仁命天皇のとき常陸国新治郡佐志能神社に設けられ、玄孫、荒田別命の子孫 佐白公が新治国造に任ぜられたときに祖神を鎮座したとされます(佐志能は佐白の転訛)。1862年(文久2年)9月に社殿が炎上し、その後、再興しました。
1952年(昭和27年)、宗教法人設立。祭神は 豊城入彦尊 高竜神。
高竜神は村上の闇竜神と同胞にして、両部で龍神と称し、雨の神とされます。
境内規模 14721・3平方メートル。

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染谷十二座神楽
染谷の十二座神楽は、染谷佐志能神社で毎年4月19日の例祭日に奉納される里神楽です。その起源については3〜400年前から続けられているといいますが、はっきりしたことはわかっていません。 |
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板敷山大覚寺庭園
旧八郷町の最北端、桜川市との境界近くにあります。本堂左側の奥に、すばらしい庭園が広がっています。中央の池に清水を満たし、周囲には松や紅葉、梅などの植物が植えられています。京都の天竜寺庭園を模して造られたと言われるこの庭園は、東西南北のいずれの方向から眺めても美しく、「裏見無しの庭」と評されており、庭園文化の格調の高さを、現在に伝えています。
同寺の起こりは、「大覚寺縁起略記」によると、後鳥羽院の皇子、正懐親王が比叡山で出家し、周観大覚と称して東国を行脚していた折、板敷山の南麓の当地に草庵を結び、阿弥陀如来を安置して「大覚 阿弥陀堂」としたことに始まるとされています。
その後、親鸞聖人が越後国から常陸国に渡られた折、布教の拠点とされた稲田御坊をたずねて門弟の契りを結び、善性房鸞英と称して親鸞聖人の布教活動を支えたとされています。
このほか、板敷山は「親鸞聖人法難の地」としても全国的に知られています。=次段参照=
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山伏 弁円 護摩壇跡(親鸞聖人 法難の地)
笠間市の稲田御坊(現・西念寺)を拠点に関東での布教を進める親鸞聖人に対し、修験僧としてそれまで人望を集めていた山伏・弁円は、人心が親鸞聖人に傾くのを快しとせず、ここに調伏のための護摩壇を築き、三日三晩祈祷した場所とされます。板敷峠にあります。
石岡市と桜川市の境界近くにあり、当時、親鸞聖人が石岡市方面への布教活動や、石岡市高浜から霞ヶ浦を舟で、たびたび鹿島神宮に渡り、参詣した際のルートにある山中です。殺害を果たせなかった弁円は、親鸞聖人を襲うため、稲田まで押しかけたものの、親鸞聖人の教えに逆に感化されて改心し、その後、親鸞聖人とともに布教に努めたということです。 毎年8月15日に行われる「みたま踊り」が早朝スタートする明圓寺は、この弁円(明法房)の開基です。

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山伏 弁円「懺悔の地」碑
「山も山 道も昔に変わらねど 変わり果てたる 我が心かな」―
親鸞の教えに感銘して改心した弁円は、その後、門弟となり、明法房と名を改めて親鸞の布教活動に協力。ともに各地を歩きます。ある日、かつて護摩壇を築いて祈った、この峠にさしかかったとき、恥ずかしさと後悔の念から、うずくまってしまったと伝えられています。 |
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爪書き阿弥陀堂
高浜の市街地、中ほどにある阿弥陀堂です。親鸞聖人が爪で描いたといわれる、阿弥陀如来像が背後の石に残されているとされます。鹿島神宮参詣のため、高浜を訪れた親鸞聖人が、当時、腫れ物のひどかった住人の症状を回復させ、その住人の願いを受けて、この石に像を爪で描いたということです。この言い伝えから、この像を尊んでお祈りすれば、腫れ物が治るという伝説も残っています。描かれているとされる如来像は普段は見ることができません。

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峰寺山西光院本堂
平安初期の大同年期、京都から来た徳一法師の開基と伝えられる。
もとは法相宗であったが、中世は真言宗となり、今は天台宗である。自然石の観音像を本尊とするこの堂宇は、関東の清水寺と称され、建坪57.6u、総高22m、脚高11mの懸造り 自舎方三間寄棟造りの珍しい建物である。
また、この堂宇からの眺望はすばらしく、晴天の日は霞ヶ浦から鹿島灘、太平洋も望むことができ、筑波の紫峰を右にして、四季の移ろいはもとより、眼下に広がる八郷盆地の景観は、京都をしのぐものがあるとされています。
現在の建物は1777年(安永6年)に焼失、1791年(寛政3年)に再建したものですが、その後、堂宇の老朽化が著しく進んだことから、歴史遺産の保護保全のため、旧八郷町当時の1971年(昭和46年)8月に修理委員会を設け、県費、町費による補助金と、寺側の一部負担をもって修復しました。
2年継続事業として工事が進められ、1973年(昭和48年)3月に建立当時の威容を取り戻し、復興しました。

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善光寺楼門
善光寺は、真言宗豊山派に属し「善光寺縁起」によると、1501年(文亀元)3月当時、小田城主であった小田成治の母堂が善光寺如来を深く信仰し、万代安穏の地を選び、この地に建立しました。
寺の南正面入口に、桁行3間、梁間2間、茅葺寄棟造りの古風な楼門(仁王門)があります。楼門の確かな建立時期は不明ですが、頭貫や木鼻などの見られる絵様、繰形などから判断すると、明らかに室町時代中期の特色を示しているとされます。
県内最古の木造建築と言われる、この楼門は、2階の軒以上を欠く未完成のものです。しかし、そのどっしりとしたたたずまいは、長年の風雪を乗り越えてきた歴史の重みを感じさせます。
1983年(昭和58年)に国の重要文化財に指定されました。

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佐久良東雄旧宅
19世紀、幕末の動乱期に和学を修め、熱烈な愛国者であった勤王歌人、佐久良東雄の生家です。
東雄は井伊大老の襲撃者の一人ををかくまったとして囚われ、獄死しました。
生家は浦須台地に建ち、生垣に囲まれた表門の内に土蔵と母屋を残し、北側は竹林がおい茂り、落ち着いたたたずまいを見せています。現存するその家は、建物時期を明らかにする資料に乏しいものの、広間型の古い間取りを残すことや、構造などから、彼の生れた1811年(文化8年)以前、18世紀末ごろの建築と推定されます。
なお屋敷は、もとは恋瀬川畔の平坦地にあり、度々の氾濫に伴い、現在地へ移したといわれていますが、確証はありません。
表門については、その建立許可文書が残っていますが、記事がなく、わずかに紙質、筆跡等、記年号のある他の古文書と比較すると、宝暦年間より天明に至る時期(1751〜1788)のものと推察されます。表門・主屋ともにこの頃に相前後して建てられたとみられます。
以来、名主として、併せて、鍛冶屋も営んできましたが、明治初年頃には鍛冶屋を廃業しました。
明治にいたるその間、建物は天保5年の改造を含めて、大小の修理をうけているものの、よく旧態を残しており、この地方の民家として極めて価値の高いものがあり、1944年(昭和19年)に国史跡指定を受けて今日に至りました。

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佐久の大杉
佐久の集落中央に鹿島神社が鎮座します。大杉はこの神社のご神木であり、「佐久の大杉様」と呼ばれています。
伝承によると、大化改新(645)の頃、大和朝廷からこの地に派遣された人物の後裔が、お手植えされた杉といわれています。
室町時代の1428年(応永34年)11月に神社が創建されたころ、「すでに千年に近い杉」といわれており、1704(元禄16年)に武甕槌尊を迎祀されたときは「千年を越す巨木であった」といわれたことが、今も語りつがれています。
また、鹿島神社の境内から皿・坏など供献用の須恵器が発見されていることから推測して、この地はもともと、古代社会において、祭祀を執行する神聖な斎場であった可能性もあります。
樹高 約20メートル
幹の太さ 8.8メートル
樹齢 推定1,300年以上
1941年(昭和16年)に県指定文化財になっています。

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瓦塚
奈良時代の741年(天平13年)、常陸国国府(現在の石岡市国府周辺)に国分寺・国分尼寺等が建立された際、その屋根に葺く瓦類を製造した窯跡です。1937年(昭和12年)に県の史跡に指定されました。
発掘調査の結果、窯の構造は粘土質の地山をくり抜いてつくられた「地下式有段登窯(ちかしきゆうだんのぼりがま)」と判明しました。
燃焼部と焼成部の区別が極めて明瞭で、焼成部は5段に造成されています。また、布目瓦と呼ばれる、多くの古代の瓦類が確認されています。いまのところ、20余基の窯跡が確認されています。

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定光寺
瓦谷地区にあります。臨済宗の寺で、霞谷山定光寺といいます。同寺の薬師如来座像は、平安期の仏像。

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雲照寺
瓦谷地区にあります。常明山寶聚院雲照寺は真言宗豊山派に属し、本尊は不動明王。慶阿闍梨の開山です。
はじめ葦穂村に1470年(文明2年)に建立。しかし、天文年間に兵火のため焼失。その後、片野城主 太田三楽が再興し、次いで柿岡城主 長倉遠江守が修理しましたが、慶長年間に廃寺。
その後、宥岳上人が現在地に1616年(元和2年)に建立、1981年(昭和56年)に弁財天堂を再興、本坊の新築、造園及び文殊院、寶珠院堂宇を新築し、弘法大使1150年御遠忌記念事業を行いました。

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長楽寺
葦穂地区龍明にあります。真言宗豊山派に属し,薬師如来が本尊です。創立は824年(天長元年)4月で、当時は滝本坊と称し、1605年(慶長10年)に長楽寺と改称しました。
仁王門は二間半、四方で、仁王尊(金剛力士像)はよく保存されています。天狗伝説の寺。現在は時代劇「座頭市」「武蔵」などのロケ地として使われている。

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太子堂
上曽地内にある。約400年前の建物で、ご本尊は聖徳太子。堂内には太子16歳の立像がまつられている。 |
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正法寺
大増山正法寺といい、曹洞宗に属します。開山は古尾谷隠岐守治貞。創立は1559年(永禄2年)であったが、約145年前に火災に遭い、2004年(平成16年)に新築されました。寺の入り口には20基の二十三夜塔があります。

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全龍寺
真家地区にあり、曹洞宗の大渕山全龍寺、当時の本尊は、釈迦如来です。釈迦牟尼如来坐像は1968年(昭和43年)に市の指定文化財となっています。

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明圓寺
浄土真宗本願寺派に属し、本尊は阿弥陀如来です。1240年(仁治元年)に山伏弁円が開山。
親鸞の関東での24人の弟子(24輩)のうち、第19輩の明法房が、この弁円です。
弁円は親鸞の殺害を企てました(親鸞聖人法難の跡地)が、逆に聖人の教えに感化されて門下に。
上宮寺(那珂市本米崎)の開基でもあります。

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山縣大弐の墓
山縣は現在の山梨県に生まれ、27歳の時に江戸に出て兵学を講じました。数年後、「柳子新論」を書き、尊王論を説きました。しかし、これらのことが幕府から咎められ、1767年(明和4年)に処刑されました。
三千人に及ぶと言われた大弐の門下生の中に、根小屋出身の薗部文之進という人物がいました。 文之進は処刑後、根小屋の自宅に大弐の首を埋葬しました。その後、明治になってから泰寧寺境内の現在の場所に改装されました。

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観音寺
真言宗智山派に属し十一面観世音が本尊です。林城跡に1335年(建武2年)開山。金剛院村上山観音寺と称しました。
第28世の吽俊は良哉または、佐久良東雄と号し、勤皇の志士として従四位を贈られています。
吽俊和尚自筆の過去帳は市の文化財に指定されています。

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如来寺
浄土真宗大谷派に属し,本尊は阿弥陀如来。中には聖徳太子浮足の像が置かれています。寺伝によれば、1215年(建保3年)に親鸞聖人の直弟子、乗然房領海が聖人の形見として太子像を賜り、「帰命山無量寺院如来寺」と号したと伝えられ、その後、1498年(明応7年)、如来寺第十世、了然のとき、柿岡の地に移されました。

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善慶寺
曹洞宗に属し、本尊は釈迦如来です。1336年(延元元年)1月に新羅三郎義光が創立しました。
1340年(歴応3年)、佐竹義包の次男、長倉義春は、法縁によって当寺に領地20石を寄進して菩提寺としました。
1600(慶長5年)4月、長倉義興が死去し、当家は断絶。同時に寺領も没収されました。
その後は檀家が守り、現在に至っています。奉納されている釈迦羅漢図の仏画は市の指定文化財になっています。

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常林寺
浄土宗に属し、はじめ自道院と称していたが、永禄年間に良薫によって常林寺と改められました。
寛政年間に堂宇を改築。七堂からなる伽藍配置で、明治年間には2回の火災に遭いましたが、再建されて現在に至っています。

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阿弥陀院
真言宗智山派に属し、本尊は阿弥陀如来です。1490年(延徳2年)、祐伝和尚の開山。和尚は市都随心院の門跡と伝えられる。福力山福伝寺と称する。寺宝は「福ねずみ」です。1910年(明治44年)に本堂焼失。阿弥陀堂のみ存し、法然房源空の書いた弥陀名号は市の指定文化財となっています。 |
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丸山古墳
丸山古墳は石岡市高友にある全長55mの前方後方墳です。
近年の研究成果から茨城県内の古墳の中でも比較的古い時期(4世紀後半ごろ)の築造と位置づけられています。

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佐自塚古墳
佐自塚古墳は佐久集落から南に延びる台地の南端に位置しています。南には高友丘陵に築かれる丸山古墳があります。
古墳の全長は約60mです。1961年(昭和36年)夏に発掘調査が行われ、約1.5mの深さから、周りが粘土で包まれた全長6mほどの埋葬施設が確認されました。中には勾玉・管玉・竹櫛・土師器の壺などが確認されています。 |
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十三塚地区の山中にあります。桜の木の下に立つ地蔵尊で、大きな山桜が目印になっています。石岡の3滝のひとつ、赤滝がすぐ近くです。 |
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十三塚薬師跡 |
筑波四面薬師の1つ。廃寺となり、いまは筑波霊園の敷地内に石碑と案内板のみが残っています。 |
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山伏 弁円 護摩壇跡
(親鸞聖人 法難の地) |
笠間市の稲田御坊(現・西念寺)を拠点に関東での布教を進める親鸞聖人を、快しとしない山伏・弁円が、調伏のための護摩壇を築き、三日三晩祈祷した場所とされます。板敷峠にあります。石岡市と桜川市の境界近くにあり、当時、親鸞聖人が石岡市方面への布教活動や、石岡市高浜から霞ヶ浦を舟で、たびたび鹿島神宮に渡り、参詣した際のルートにある山中です。 |
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山伏 弁円「懺悔の地」碑 |
「山も山 道も昔に変わらねど 変わり果てたる 我が心かな」―
親鸞の教えに改心した弁円は門弟となり、明法房と名を改めて親鸞の布教活動に協力、ともに各地を歩きます。ある日、かつて護摩壇を築いて祈った、この峠にさしかかったとき、恥ずかしさと後悔の念から、うずくまってしまったと伝えられています。 |
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十三塚から筑波山に向って登り、風返し峠から不動峠に向かう途中、右側にあります。 |
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「菖蒲沢の薬師堂」は、筑波四面薬師の一つで、かつては大変にぎわいました。ここに向かう薬師古道には、水の神様「龍神様」や「天白稲荷神社」などいろいろなポイントがあり、地域の歴史や里山の景観を楽しめむことのできる、森林浴の道です。
「薬師古道」は終点の庚申塚の標高が200mあり、変化と起伏に富んだウォーキングロードでもあり、おすすめのコースは、旧朝日小学校(石岡市柴内630番地)をスタート地点にして、辻の十字路を通り、菖蒲沢公民館を目指して、庚申塚まで向かう片道約2.2qのコースです。
薬師堂ハイキングコースはこちら
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朝日観音 |
朝日小学校に近い柴内の中心部にあり、正面には1918年(大正7年)の道標があります。
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北向観音 |
集落西端の大字仏生寺字観音地区にあった龍光院の別院で、本堂の正面が北側を向いていることから名づけられたとされています。
伝説によれば、天平年間(729〜749)に、僧行基が常陸国府を訪れ、東南の方角にめでたい兆候があり、夜、怪しい光を見たことから、老翁の指示に従って仏像を刻ませ、里人が一堂宇を造って安置したといわれます。
また、「小町伝説」には小野村の小町が病にかかり、峠を越えて観音堂に参詣して全快したという言い伝えも残ります。小町腰掛石・簪の木・覗石・姿見の池などが境内とその周辺にあります。近隣はもとより、遠く筑波郡や行方郡からも参詣者があったといわれます。 |
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宝篋印塔 |
石岡市半田地区の畑の中に存在します。室町時代の造立と推定されます。当時の高僧が経巻を塔中に納め、後に供養塔にしたものと思われます。今も「お鳴様」と呼ばれてあがめられ、信仰されています。1974年(昭和49年)に県指定文化財に登録されております。
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